「自我」と「本当のわたし」の正体

4 心と宇宙の法則

「本当のわたし」とは何か。そして、日々悩み、選択し、葛藤しているこの「自我」とは何のために存在するのか。

精神世界や哲学の探求において、しばしば「個としてのわたしは存在しない」と言われる。しかし、そう言われても、私たちは現に「自分が選び、自分が生きている」という強固な感覚の中にいる。

この矛盾の核心には、人間にとっての「善悪」を遥かに超えた、この宇宙という「一なる世界」が持つ、驚くべきシステムが隠されている。

1. 一なる世界は「多様性」と「あらゆる可能性の発現」に向かっている

まず前提として、この世界はバラバラに分離した個体の集まりではなく、すべてがつながり、連動して動いている「一なる世界(大いなる生命)」である。

そして、このシステムが目指しているゴールは、人間が定義するような「一つの正しい善」ではない。もし世界が善や正解だけに向かっているのだとしたら、歴史から悲劇や葛藤はとっくに消え去っているはずである。

一なる世界の本当の目的は、「この世界で表現可能なあらゆる可能性を、全方位にくまなく発現させ、圧倒的な多様性へ向かうこと」にある。

ポジティブなことも、ネガティブなことも、美しいことも、醜いことも、すべてはシステム全体から見れば、単に「こういう可能性もある」というバリエーション(グラデーション)の一つにすぎない。多様であること自体が、この世界の豊かさであり、システム全体の強靭な安定基盤になっている。

2. 自我とは、可能性を尖らせるための「専用端末」

では、なぜその一なる世界の中に、わざわざ「わたし」という不完全な自我(個人の意識)が立ち現れてくるのだろうか。

すべてが1つのままで、境界線もない状態では、物質世界において「特定の可能性」を具体的に突き詰めて表現することができない。

そこでシステムは、全体を一時的に「個」へと切り分けたかのような錯覚を作り出した。それが自我の正体である。

自我という分離の錯覚があるからこそ、全体の中に埋没することなく、「個」としてのユニークな視点や、独自のこだわりを持つことができる。つまり自我とは、一なる世界が「まだ見ぬ新しい可能性」をこの現実にピンポイントで発現させるために、戦略的に立ち上げた専用のインターフェース(端末)なのである。

3. 個のわたしは存在しないが、固有の「意思」は湧き上がる

したがって、本質的な意味において「個としてのわたし」はどこにも存在しない。

人が日常のなかで抱く「こうしたい」「こうしよう」という意図や意思は、個人がゼロから生み出したものではない。それは、一なる世界が「あなた」という固有の端末(フィルター)を通して、この世界に新しいバリエーションを一つ付け加えようと駆動している、固有のベクトル(向き)そのものである。

  • ある端末(人)には、新しい仕組みを構築したいという意思が湧く
  • ある端末(人)には、特定の技術や表現を究めたいという意思が湧く

個としてのわたしはいない。しかし、一なる世界のシステムが、その個体独自の可能性を発現させようと強烈にドライブしているがゆえに、結果として「まるで個人の選択や自由意志があるかのような振る舞い」がリアルに起こる。

私たちが日々、あきらめずに模索し、自分の意思で何かを選び取ろうと動かされていること自体が、大いなる多様性のシステムが今この瞬間も正常に駆動している証拠なのである。

まとめ

「本当のわたし」とは、あらゆる可能性を発現し続ける一なる世界そのもの。 「自我」とは、その多様な可能性を具体的な形にするために、戦略的に配置された端末。

自分という端末に湧き上がる「こうしたい」という固有の意思に従い、自由意志があるかのように振る舞いながら、世界に新たな1ページを表現していくこと。それ自体が、大いなる生命の営みそのものなのである。

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